吹奏楽の歴史 1 中世の吹奏楽 (邦訳)

このシリーズは、海外の研究者によって吹奏楽の歴史をまとめられたものを、原作者の正式な許可をえた上で翻訳編集したものです。引用・参考にする際は必ず管理人までお問い合わせください。膨大な資料なのできまくぐれ更新です。

はじめに

 中世西ヨーロッパの吹奏楽に関しての情報はどうしても大雑把なものになります。この時代に書かれた音楽は例を上げようにも希少だし、ましてや器楽曲なら尚更です。しかし、まずはじめに、この時代の社会に管楽音楽がどう適応していったのかという興味深い話から紹介していきましょう。

どんな時代?

 中世ヨーロッパという世界は、全くもってお勧めできる時代ではありません。ほとんどの人にとっては貧困と飢餓そして奴隷としての生活でしたし、さらには多くの戦争と疫病によって土地は荒れ果てていました。しかし一方で、庶民がその暗黒時代から抜け出そうと闘争を始めた時代でもありました。マグナカルタのような文書から、個人の権利や立憲君主という概念が日の目を見始めたのです。

 一方で、カトリック教会が十字軍を西ヨーロッパ全土から召集、派遣しパレスチナをイスラム教徒から奪還することについて、政治的理由に疑念はあったにせよ、それは結果として西ヨーロッパを長きにわたり孤立した状況から、外の世界に触れさせることにつながりました。

 また、当時は現代にも残る偉大な大聖堂に代表されるようなロマネスク様式とゴシック様式の建物の全盛期でした。そしてまた、チョーサーの『カンタベリー物語』、ボッカチオの『デカメロン』、ダンテの『神曲』そしてヒルデガルトの作品といった偉大な文学の時代でもありました。そして、トマスアクィナスに代表されるスコラ学が台頭してきた時代でもありました。

アカデミアと音楽

 長い間、学問の主要拠点となっていた修道院学校は、最初は大聖堂学校にそしてのちに大学にとってかわられていきました。修道院学校から大学になる過程で学問分野は分岐していきましたが、多くの学識ある者たちはまだ教会と深く結びついていました。

 例えば、科学的な実験観察の先駆者であるロジャーベーコンはフランチェスコ会に属していましたし、トマスベケットはイングランドの首席大司教(カンタベリー大司教)に任命される前は助祭長として聖職についておりました。当時の社会学や音楽、文学といった文献の多くは聖職者によって書かれたものです。

 したがって、彼らの主な興味は教会における音楽であったため「Musica enchiriadis」に代表される中世ラテン語の論文は世俗音楽については扱っていないのです。器楽音楽を含めた世俗音楽に関する参考資料というものは1150年に、当時の学者たちが庶民の民族舞踏や民謡について研究し始めるまで現れることはありませんでした。

Collage of illuminations from the Cantigas de Santa Maria, Codex E (Spain, c. 1280)

中世吹奏楽の始まり

 歴史的な資料から、吟遊詩人(joungleur や minstrel)として知られる巡業する詩人や演奏家が、中世器楽音楽を考える上での鍵であるということが明らかになっています。Jongleurとはフランス語で文字通り吟遊詩人という意味で、どことなく怪しく、流れ者的、浮浪者的な生き方で、また音楽は一般的には低俗なものとして見られていました。一般に今日のクラシック音楽の演奏家は一つの楽器を極めていますが、当時の演奏家は音楽だけでなく市場が求める多様なスキルに対応する必要がありました。

俺はリュート、ヴィエール、パイプ、バグパイプ、パンフルート、ハープ。フィドル、ギター、ハーディ・ガーディ、オルガニストルムに太鼓まで、演奏できる。歌だって上手に歌えるし、若い女が喜微層な物語から勇敢な騎士の物語だって吟じることができる。ナイフでジャグリングもできるし、縄跳びだってすごい技を繰り出せる。椅子やテーブルで曲芸したり踊ったり、宙返りしたり逆立ちだってできるんだ。

 彼らのようなエンターテイナーは詩人でも作曲家でもありませんでしたので、いつも新しいネタを探していました。その一つの機会が仕事の減る四旬節(受難節として祝宴等が自粛される)の時期です。この時期に休暇となった演奏家たちは、演奏家たちが集まり演奏技術を磨いたり新しい歌を勉強したりする、いわゆる吟遊楽人の「学校」に行き、レパートリーを増やしていきました。ひょっとすると、先に引用したチョーサーもそういった「学校」に訪れた時にインスピレーションを受けたかもしれません。

 先に述べた通り、当時の演奏や訓練の様子を完璧に叙述することはできません。なぜなら当時の楽器がどのようなものであったか、どんな音であったかという資料がないからです。しかしながら、中世の聴衆が多様な楽器とたくさんの音色を使う音楽を好んでいたということは明らかとされています。

 有名な作曲家であるギヨーム・ド・マショーは31種類の楽器を総勢五十人で演奏した14世紀の演奏会について言及しています。このようなアンサンブルの壮大な音色はとても好奇心をそそるものですが、今となっては残念なことに、ただそれがどんな音であったのか想像することしかできないのです。

当時、Jongleurは、専門的で高い技術を持つとされるMinstrel、吟遊楽人にとってかわられていきました。しかし吟遊楽人らもまた、流れ者とされ偏見や差別に苦しめられていました。彼らは特定の教会の助けなしには市民としての発言権はありませんでしたし、与えられた市民権は最小限のものでした。

このことは、他の職業と同じような都市部における吟遊楽人のギルド化を促しました。現在の労働組合と同じようにギルドは社会の構成員としての一定の生活水準や法的な保護、そして以前は好まれていなかった都市社会との調和を生みました。

また、病気や退職した人への援助をしたり、流れ者の演奏家を排し地元の演奏を全て組合員によるものに限定することで仕事を保証したりしました。巡業音楽家とその多彩な生活スタイルは、歴史の中に影を落とし、その後吹奏楽団の担い手となる宮廷や街の音楽家にとってかわられていったのです。

“Music and dance”, illumination from
Tacuina sanitatis (Tables of Health), 14th century

教会における管楽器の受容

 遡ること1世紀から行われている礼拝における楽器使用に対して、教会は長いこと反対の立場にありました。一方で、礼拝において楽器が使われているという記録が、ユダヤ人の歴史(歴代誌第2巻7:6,29:25-28)と詩篇(81:2-3,98:4-6,150)などいくつか存在し、新約聖書ではヨハネの黙示録における天国の描写にのみ登場します(11:5,15:3)。1世紀における教会音楽がアカペラであったということを遠い昔の文献が示していたということが、結果として何世紀もわたり教会において楽器演奏が禁止されることにつながったのです。楽器が排除されたその他の理由としては、おそらく

1、キリスト教が迫害されている地域においては、楽器の持つ潜在的な音量が、秘密裏に行われている礼拝の現場を暴露してしまうという安全性の問題

2、偶像崇拝宗教の集会において楽器演奏が広まっていたことを背景にそれを罪だと考えたこと、

が挙げられます。

数世紀経っても、楽器は社会の中でも道徳的に望ましくない要素として捉えられており、礼拝における楽器使用は禁忌とされていました。したがって、中世音楽に関する情報というものは、非常にぼんやりとしたものしかありません。

やがて、三つの理由、1宮廷や町における器楽音楽の需要の高まり、2ヴェニスのサン・マルコ寺院等のような教会における楽器使用の常態化、3ルネッサンスと活版印刷による文化的社会の到来によってこうした情報資料は増えていくことになります。

 楽器、特にオルガンは早くて7世紀から8世紀に教会において使われるようになりました。機械的な発展が楽器をより機能的に優れたものにしたことで、その受容は拡大していきました。一方、12世紀になってもなお、その他の楽器はまだ教会においては禁止されていました。

しかし、楽器演奏家は基本的に礼拝に現れないにもかかわらず、聖職者たちは他に彼らを雇う機会がたくさんありました。初期の例では、1227年のグレゴリウス9世の戴冠式において、祝祭ムードを盛り上げるために管楽器が使われましたし、14世紀には多くのドイツ人僧侶が私的な吟遊楽人の楽団を持っていました。また、より身分の高い聖職者は管楽器奏者を引き連れてその場にふさわしいより大規模な「壮大な儀式」を提供することが習慣となっていました。楽団は、1438年のフローレンス公会議において教皇がトランペット、太鼓そしてショーム(オーボエの前身)とともに入場したのと同じように、奉職ではないにせよ合奏団が臨時で雇用されていたと言えます。

器楽合奏団は、教会主催のパレードや祝祭で頻繁に使われるようになりました、また中世演劇(聖書物語や、イエスキリストの生涯、創世記といった聖書の中の代表的な劇的なテーマを扱った演劇)の登場によって教会の建物の中での立ち位置も見出し始めました。

この頃になると、器楽合奏団は特定の祭日のミサと同じように、高貴な身分の人の結婚式や洗礼式でも演奏するようになりました。こうした際に使われた楽器は、ショーム、トロンボーン、ホルン、トランペットに多種多様な打楽器(太鼓、タンバリン、ナッカーラ(小型のトルコ風ケトルドラム))に弦楽器がありました。

Detail from the cloister of the
Eglise Santa Maria La Real Sasamon
(Burgos, Spain, 13th Century)

中世都市の楽団

 管楽器奏者たちはだんだんと自分たちの仕事を様々な所で得るようになりました。例えば、中世の都市は城壁に囲まれていることが一般的で、城壁に沿った塔に配置される見張り役は、街に対して脅威である盗賊や火事に目を光らせました。最初は鐘が塔に備え付けられ信号を鳴らしていましたが、12世紀の後半にはトランペットも加えられました。トランペット奏者は警報役として非常に役立ちました、なぜなら特定の信号によって人々は火事やその他の緊急事態が街のどこで起こっているのか具体的に分かったからです。

 やがて、演奏家たちは時刻番(特に時計が見えない夜間に重宝された)や、自分の本来の家に戻る時間であると愛人関係の者たちに夜明けを知らせるといった役割を担うようになりました。

 時代が進むと、見張り役の仕事は重要なニュースのアナウンスだけでなく、囚人や売春婦らの鞭打ちのパレードにも広がっていきました。13世紀の終わり頃には、都市の演奏家たちは貴族の晩餐会や縁日、舞踏会といったエンターテイメント産業の一部として音楽を提供するようになりました。

 演奏家たちがその音楽的能力を向上させると、ブイジーヌ(トランペットの前身で歌口からベルまでが真っ直ぐなもの)は改良されたトランペットやスライドトランペットの発達にとって変わられ、ショームも改良されるようになりました。ゆっくりとではありますが、演奏家たちの仕事は危険を知らせる警報を鳴らす役割から、コンサート演奏のような形式の初期の段階に進行してったのです。

 13世紀までには、いくつかのイタリアの都市では都市のバンドに固定給を払っていました。フィレンツェでは演奏家がより立派に都市に仕えるよう夏服と冬服のユニフォームの着用が義務付けられ、14世紀の終わりには三つの楽団が運営されるようになりました。

 都市の楽団の仕事は日常の演奏やパトロンの公的な儀式、縁日の祝宴、地元貴族の就任式典にも及ぶようになりました。ヴェニスは特に手の込んだパレードで知られ、他の都市や国と貿易や条約が結ばれるとサン・マルコ広場やその周辺で壮大に催されていました。

国ごとの様子

イギリス

 イングランドでは、塔の演奏家は「watch」や「wait」と称されてました。演奏家たちは本来一つの役割のために雇われていましたが、様々な仕事を与えられるようになりやがて都市の楽団を形成することになりました。

 14世紀の記録には都市の楽団はロンドンだけでなくレスター、エクスターそしてヨークにも設立されていたと記されています。イタリアと同様に、初期の参考資料には「Lord Mayor’s Day」として知られる年に一度のロンドン市長の行進行列のような催し物について記されています。力を持ったギルドも、「ギルドの日」といったような年に一度の機会に臨時雇用や常用雇用によって自分たちのバンドを抱えました。

 15世紀までには多くの年で楽団が展開していっただけでなく、楽団はその都市を示すユニフォームや「hood」によってよく知られる存在になりました。都市を代表するバンドはその華やかさや壮大さを競い、熾烈な争いを繰り広げるようにもなりました。

 1457年のダブリンの8つの都市の夜警は、「門限から朝の5時まで夜の街をうろついていると、都市の教会にある全ての事務所で4ペンス、お店では3ペンスをもらえるのである」と記されているにもかかわらず、やがて、「見張り隊楽団」は夜警の機能を失い公衆でのパフォーマンスに力を入れるようになりました。ロンドンでは似たような依頼がありましたがそこでは夜警として防犯をするだけでなく人々を楽しませる役割も担っていました。

ネーデルラント

 見張りから楽団への変貌はネーデルラントでも似たようなものであり、またここではゲストを食事でもてなした後の晩餐会コンサートが開かれていました。晩餐中の演奏とは違い、これはしっかりした演奏会の類のものでほとんどは声楽のポリフォニーを編曲したものでした。ブルゴーニュ公国のブルージュの楽団へのレパートリーと職務についてはその指示は以下のように非常に具体的なものでした。

 全ての演奏家は古い公会堂の前の決められた場所で、「Easter」から「Baefmess」(10月1日の祝祭日)までは毎週日曜日と祝日に昼の11時から夕方6時まで、「Baefmess」から「Easter」までは午後3時までシャンソン2曲かモテットを毎回演奏し、演奏者は賑やかに演奏し出勤簿に記入をすること。

フランス

フランスにおける都市の楽団もこれまで述べてきたのと同様の経緯を辿っていて、特別に興味深い点と言えば1321年から以下のような法的な規定が存在したことでしょう。

  1. 演奏家は任期を満了しないうちは新しい契約を結んではいけない。
  2. 演奏家は病気か投獄のいずれかの理由以外では代役を立ててはいけない。
  3. 結婚式の演奏で雇われた演奏家は料理長や給仕の下請けとして契約してはいけない。第三者が手数料を取る可能性があるからである。
  4. 演奏家は自分の演奏技術を勝手に宣伝してはいけない。むしろ、雇用主はギルドの本部の指示に従わなければいけない。

ドイツ

ドイツの各州でも上に述べたようなのと同じように演奏家たちは活動していました。見張り役、結婚式(早くには12世紀ごろから)、街のお祭りや式典なども同様です。安定した都市では演奏家のギルドも設立されていました。一方、記録によればコンサートのようなものは少なかったものの、日中の決まった時間に都市の塔においてコラールを演奏するのが伝統になっていきました。これらの曲は三本のショームと一本のサクバット(トロンボーンの前身)かスライドトランペットによって演奏されていたとのことです。

The Nuremburg town band, c. 1500

宮廷音楽の吹奏楽

 吹奏楽団はやがて、都市社会の組織の中でより安定した地位を提供されるようになりました。西ヨーロッパにおいて、トランペットと太鼓の初期における使用は厳かな儀式や王家や貴族の祭典を告知するものでした。こうした行事の告知に特に使用された楽器は、高い音のクラリオン(短いトランペット、英国風トランペット)で、また馬上大会や晩餐会といったようなイベントには長いトランペット(ブイジーヌ)が使われました。

 社会的に高貴な儀式のたびにクラリオンの凛とした音が使われることが多くなり、こうした楽器の演奏者たちは高貴な人の側近の中で不可欠な存在となっていきました。彼ら演奏家やトランペット奏者たちは、新しく台頭した階級である「minstrel」(以前は吟遊楽人と言われていた)として正式に称され、偉大な名士の従者(ministerium)の一人として、高い社会的評価と賃金をもらっていました。

 前の時代の個々が競合していたjonglerやharperとは対照的に、彼らは個人だけでなく様々な楽器の演奏家で形成されたministralliと呼ばれるグループで活動しギルドを形成しました。こうして彼らは口伝のレパートリーや工芸技術を保存し伝えるための組織ともなっていったのです。

中世の楽団は「大きい」と「小さい」の二つに分けれられます。大きい楽団とは、トランペット、トロンボーン、ショーム、ホルン、バグパイプに打楽器類といったによって演奏される純粋な吹奏楽団です。彼らは屋外や広い屋内での主に演奏をしました。一方で小さい楽団はフルート、リコーダー、リュートに鍵盤楽器からなり、より小さな部屋で演奏を行いました。

トランペットは貴族社会の中でも特に上流・高貴なものとして考えられていたので、主たる高官が訪れた際の告知や、こうした時に開催される式典である「荘厳な儀式」においてよく使われました。

また、仮面舞踏会や無言劇(仮面や変装をした演劇)といった宮廷行事で使われるのと同様に大晩餐会のような時にも演奏されました。馬上大会や馬上槍試合ではトランペットと太鼓の音色がその場を盛り上げるのに楽しまれた一方で、ホルンは狩の合図に使われました。また、吹奏楽団は戦場に赴く貴族にもついていきました。

舞踏会は宮廷のイベントの中で特に人気のあるものでした。中世後期に最も人気のあった舞踏はベースダンス(滑るようなステップの荘厳で優雅な舞踏)で、おそらくショームやバグパイプ(のちにスライドトランペットに代わる)によって伴奏されていました。

演奏家たちは歴史の中の数多くの場面で活躍をしていたことを示しています。エドワード1世はエドワード2世に称号を与える際にヨーロッパ全土から演奏家を集めたり、彼の結婚式には426人の演奏家を雇ったとされています。

結婚式や戴冠式は吹奏楽団が大衆の脚光を浴びる素晴らしい機会でした。ヘンリー5世とフランスの6世の娘であるキャサリンとの結婚式や、その一年後の彼女の戴冠式の目撃者たちは、多くの演奏家が式典にいたことを示唆しています。

The Marriage by Nicola da Bologna, c. 1350

東方からの影響

ヨーロッパ貴族社会はヨーロッパ中を旅行することだけでなく、十字軍によって異国情緒あふれる地域に赴くことで、様々なスタイルの音楽文化に出会いました。スパイス、火薬そして数学は東方の近隣あるいは遠方からの影響のほんの一部に過ぎません。

ヨーロッパ人はオスマン帝国のサラセン人と十字軍の時代から19世紀における衰退期まで交流をしていました。そして、こうした異文化との遭遇によりヨーロッパの人々はサラセン人の楽団の異国情緒のあるサウンドや楽器に強く惹きつけられていきました。サラセン人を通してヨーロッパ人はショーム、シンバル、トライアングル、ナッカーラのような太鼓そして東方式のトランペット(フランス語のブイジーヌとは区別された)といった楽器に初めて遭遇しました。

ヨーロッパの人々はこうした異国風の音色、特に打楽器類(シンバル、トライアングル、クレセント、大太鼓、ティンパニ)に魅了され、こうした楽器への興味は18世紀の後半や19世紀の前半にも影響し、モーツァルトの後宮からの誘拐や、ベートーベンの第9交響曲にも現れています。

テュルパンによるカール1世の十字軍の記録は、サラセン人の太鼓は非常に煩く威圧的で、キリスト教徒たちは馬の目と耳を塞がなければいけなかったと記しています。

皇帝バイバルスは軍楽隊をトランペット20、ティンパニ40、ショーム4、大太鼓4の総勢68人で組織したと記録しています。軍楽隊は単なる合戦における合図の役割だけでなく、彼らの生み出す大きくて強烈な音色はそれ自体が相手を怖がらせたり挑発するための戦略でもあったのです。

早くには、Geoffrey de Vinsaufが獅子心王として東方の敵と対峙した有名なリチャード1世の偉業をまとめた第三回十字軍(1189-1192)の記録にも東方の軍楽隊について言及されています。

彼らは馬に乗り鷲よりも速く、稲妻のように激しく猛烈な気迫で突撃してきた。彼らが前進すると粉塵が沸き起こり空を暗く覆い尽くした。彼らの先頭はおそらく将軍で、彼らはクラリオンとトランペット、あるものはホルン、あるものは笛、他にも多くの兵がティンブレル、ゴング、シンバル等を持ち恐ろしい音と騒音を轟かせていた。大地は耳障りな響きで振動し、彼らのホルンやトランペットの音の中では雷鳴さえも聞こえないほどだった。彼らは自分たちを鼓舞するためにこうした行為を行なっており、騒ぎが暴力的で大きくなるほど勇敢になっていくようだった。

トルヴェール(12-13世紀の歌手)であったリチャードという人物について、その努力の様子が他の音楽家たちによって言い伝えられています。この十字軍遠征において彼はチューバとブッキーナの両方を持っていたそうです。合戦の合図や信号に使われたのはトランペットだけではなく、彼が合図に反応し応答できるように入念に配置したピラミッド陣形の軍楽隊も一役買っていたようです。

ヨーロッパ人がオスマントルコの民族楽器にある種の魅力を抱いていたのに対して、トルコ人側は必ずしもそうではなかったようです。ミヒャエル・プレトリウスは自身のSyntagma Musicumの中で、フランスのフランシス1世がスレイマン1世が即位した年に豪勢な貢物として大きくて非常に高価な楽器(とそれを演奏する演奏家たち)を献上した様子について述べています。それによると、トルコの人々がヨーロッパ風の音色に興味を示すようになると国王は民衆が懐柔されないようにと、それらを破壊し燃やしてしまったようです。

中世の戦争という場面においては、メフテル(オスマントルコの軍楽隊)は敵を混乱させたり挑発するものとして、また、自国の兵士を勇気付けるものとして非常に重要視されていました。実際に彼らは軍隊、スルタンやアミールの勲章の近くで重用されキャンプやバラックでも特別な場所を設けられていました。敵に楽器や楽団員を奪われるのは特に重大な敗戦とされ、一方で敵の楽器や軍楽隊を奪うとすぐに全員に表彰されるほどのものでした。

Unidentified modern Mehter band

まとめ

中世の器楽音楽というものは、町や宮廷のエンターテイン メントから軍楽隊まで多岐にわたっています。こうした異なる背景が、私的な場面でも公的なエンターテインメントでも様々な楽器が使われるようになった要因と言えます。そして、次に起こるルネサンスまでの間、器楽用のソロ曲というものが出版され様々な会場で演奏されるようになっていきました。